佐佐木幸綱『群黎』を読む
美しい2分冊
更新をサボっていてごめんなさい。周回遅れの第3回です。
今回取り上げるのは、佐佐木幸綱の第1歌集『群黎』です。『群黎』は1970年刊行。第1回で取り上げた『羊雲離散』が1968年刊なので、近い時期の歌集ということになります。短歌自体は『佐佐木幸綱の世界』第1巻や、筑摩書店の『現代短歌全集』第15巻で全て読むことができますが、機会があれば、ぜひ初版の装丁を見ていただきたいところ。函装で2分冊、「I」は1ページ3首組で実験的な連作が多く、「II」は2ページ1首組(1ページ1首ではないのに注意)、一首独立の歌が並んでいます。箱には穴があいていて、瀟洒なデザインです。
余談ですが、私が初めて初版『群黎』を見たのは、天野慶さん・村田馨さんが東京都内で開催していた「喫茶うたたね」(=様々な歌集を読める移動式ブックカフェのようなイベント)でした。直接手に取って本の形やページ組を確かめる機会は、本当に貴重だと思います。さらに余談ですが、私が2011年に『裏島』と『離れ島』という「双子」の歌集を出したとき、ヒントになったのが『群黎』でした(諸々の事情で函装は諦めましたが)。「喫茶うたたね」で『群黎』を見ていなければ、私の歌集は双子仕様になっていなかったかもしれません。
「男歌」ってなんだろう
さて、佐佐木幸綱の歌と言えば必ず出てくるキーワードが「男歌」。これは、『群黎』の解説で大岡信が、
佐佐木幸綱の歌を一言で形容するなら、《男歌》である。オトコウタであり、オノコウタである。
と書いたことに始まります。いわゆる「男っぽさ」を前面に出した作風、というイメージで良いと思います。たとえば歌集中の、
- ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ
- 奴は女くったくのない瞳さえ俺の裸身の汗に裂かれき
- サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん
といった歌は、いかにも男性性を力いっぱい押し出しているように見えますね。筋肉質の腕から飛び散る大粒の汗が目に見えるようです。ただ、同じ解説の中で、大岡信は、
荒魂の歌の中に、はにかみやの、意外に優しい清々しさと純情が鳴っている。この美丈夫は、女性にもてることだろう。茂吉は女にもてたか? 喝!
とも書いているのです(……喝?)。その辺りの微妙な作風をどう味わうか、というところが、この歌集を読み解く鍵になるかもしれません。
さまよえる歌人の会で取り上げたのは、2014年7月。レポーターは、堀田季何さん(中部短歌)と、とある縁で『群黎』初版を所持している(と口走ったばかりにレポーターを任された)佐々木朔さん(早稲田短歌、羽根と根)でした。参加者は9名と、ちょっと少なめでした。
前衛第三世代の文体
まずは堀田さんの発表から。
堀田さんはまず、佐佐木幸綱デビュー当時の短歌シーンをおさらい。前衛短歌を大まかなデビュー時期と年齢で分けると、第一世代が塚本邦雄・岡井隆、第二世代が寺山修司・春日井建、そして佐佐木幸綱や福島泰樹が第三世代に当たると整理した上で、第三世代の大きな特徴として、安保闘争やベトナム戦争など、時代の影を指摘しました。
たとえば「I」冒頭の連作「動物園抄」では、
- 肥り気味の黒豹が木を駆け登る殺害なさぬ日常淫ら順路の従って進んで下さい
- 状況のねむさの底の危機一髪の危機きらり千の針・針鼠警告します。立ち止ってはいけません
- 帆を上げろ! 帆ならぬ帆型背に立てて大蟻食いが嗅ぐ土の底そこの学生! 立ち止ってはいけない!
というように、詞書(脚注?)に機動隊の口調がそのまま取り込まれています。また、
- ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ
- 吊皮の環の白き列 宙吊りの日常の手の群を射とめよ
など、呼びかけや命令形の多さ、また、韻律の崩壊にも時代性が表れているとのことです。
一方で、季題、古語、枕詞の多用など、そこかしこに和歌の影響が見られるのも特徴です。
- イルカ飛ぶジャック・ナイフの瞬間もあっけなし吾は吾に
永遠 に遠きや - あじさいの花の終りの紫の濡れびしょ濡れの見殺しの罪
- 国家と民族と対置されざる不毛の論理 フグちりのフグを食いつつまた重ねいつ
1首目「遠きや」の「や」や、2首目の「あじさいの花の終りの……」という「の」の重ね方など、古典的な文体を用いる一方で、現代かなづかいを採用し、「びしょ濡れ」といった現代的な言葉を取り込んでいるところに特色あり。また、3首目のように、旋頭歌や長歌にも挑戦しています。堀田さんは、「和歌の伝統とつながっているという意識があるのでは」と指摘しました。
「男歌」という観点では、肉体、エロス、若い男性、動物性、スポーツ、オノマトペの多用といったキーワードが挙げられていました。
怠惰は敵
続いて、佐々木朔さん(「佐佐木」さんと紛らわしいため、以下「朔さん」と表記)の発表。朔さんは『群黎』の「I」「II」を読み比べて、連作性の強い「I」がより面白かったと評価しています。
たとえば、連作「動物園抄」において、詞書(脚注?)と一首一首が対応しておらず、詞書だけが独立してストーリーになっていること。連作「東京の若者達」で、複数の主体が試みられていること。また、旋頭歌の連作の中に一首だけ短歌形式の歌が混じっており、定型への問題提起になっていること。記号や擬人化などを駆使して、歌を現代社会のメタファーとして浮かび上がらせていること。こうした実験的試行が、「I」には溢れているのです。
一方、「II」の方は、一首独立と言いつつ詞書に頼っている部分があり、いわゆる私性が強く見えるのが特徴だと指摘しました。
朔さんは、幾つかの語彙や概念が歌集の中で繰り返し出てくることに注目します。キーワードの一つ目は、「若さ、みだらさ、恥ずかしさ」。
- 肥り気味の黒豹が木を駆け登る殺害なさぬ日常淫ら
- ボクサーの恐怖連日育ち来て予感す若きゆえ醜き死
- 生きのびて恥ふやしゆく 日常は眼前のカツ丼のみだらさ美しさ
- 陽の下に裸身ひりひり乾かしている奴 非力はみだらなるかな
- 日暮れ樹々の若さ淫らに照るなかを渦まきながら 蚊柱のぼる
ここに共通するのは、作者の「怠惰なことが嫌い」という姿勢なのではないか、と朔さんは分析します。人間として生まれてきたからには、何かを成し遂げなければならない。何もしないでエネルギーを無駄にすることや、目的意識から逸れていくことは「みだら」である(「殺害なさぬ日常淫ら」「非力はみだらなるかな」といった表現に注意して下さい)。そして、若さとは、溢れるエネルギーを無駄に使うことである。それゆえ、作者が「若さ」について言及するときは、否定的なニュアンスを帯びていることが多い、という訳です。
初めに挙げたジャージーの歌などを見ると、いかにも自分自身の若さを誇っているかのように見えますが、注意深く読んでいくと、それほど単純ではないということになりますね。朔さんはまた、「はじめは《男歌》という言葉のイメージが先行して嫌だったが、〈男はかくあるべし〉というようなことは意外と言っていない。ジャージーの歌も、あくまで『吾の男』に呼びかけていて、男性一般を指している訳ではない」と付け加えています。
「みだらさ」の対極にあるキーワードとしては、「すがし、潔し、精悍」が挙げられていました。
- さむい川だが渦巻き走り進みゆき潔しいっさんに過ぎゆくものは
- 迎え撃つ清しさ 冬の目玉きりきりと見開いて不動明王像あり
- 太陽の視線を殺せ清潔な精悍な若い水のうねりよ
また、血や尿のイメージも頻出します。
- 英雄は寒くしずかに
尿 する十八世紀パリのひとりも - 戦わぬ青年なれば川に向き尿して夜の道帰り来つ
こうした歌には、時代的な敗北感が塗り込められていると考えて良いでしょう。小野茂樹の回でも見た通り、この時代は、学生運動の高まりと挫折という背景なしに語ることはできません。若さへの愛と憎しみというテーマも、そうした時代に学生として生きていた佐佐木幸綱が、自ら育てていったものなのだと思います。
同じ語彙を何度も繰り返すことについては、「ある種の決めつけの激しさがあり、語彙の方に現実を引き寄せる強引さが見られる」と朔さんは考えています。また、オノマトペの多さも、作者の感覚を読者にそのまま押してくるという意味では、決めつけの強さに繋がるのではないか、とのこと。自由律を取り入れ、リフレインやダジャレ的な言葉遊びを多用する韻律も、押しの強い印象に一役買っているかもしれません。
俺俺、または俺たち
フリートークで出た意見を箇条書きにします。
テーマ性
- 連作ごとのテーマはわかるが歌集全体のテーマがわからない。安保やベトナム戦争自体を言いたいというより、全部自分の言挙げに見える(「俺俺感」に回収されていく)。
- 今読むと、時代性が新鮮。
- サイゴンの連作は血が通っている。
- 「I」と「II」は内容的に補完し合う関係。
男性性と他者の描き方
- 他者が描かれていない。
- 男は「俺たち!」とスクラムを組んでいる感じ。
- (上の意見に対して)連帯感はそれほどない。むしろ(自分だけの問題として)内面化している。
- 俳人の北大路翼さんを想起。「強い男であらねばならない」という観念。
- 女性の描き方にパターンがある。関係性の切れた女性は即物的で猥雑に描くが、身近な女性に対しては意外にナイーブ。淡いところで詠んでいる歌もある。
- 母性との結びつきも?
伝統の継承と反発
- 佐佐木家に生まれたことの矜持と反発が文体に表れている。
- 「佐佐木家」というテーマは後々の歌集まで続く。エディプス的なものは後に乗り越えられていった。
- 上の世代への意識も高い。
「私の好きな一首」コーナー
「私の好きな一首」コーナーから引用します(矢印以下は選んだ人の一言コメントです)。
- 抒情こそ時間たわめて点火せる野火動きゆくごとき遠鳴り
→ 絡め手で抒情の力に言及している。 - 山羊のいる土手の夕映えに出遇うバスの終点まで来しふたり
→ 穏やかな女性観。 - たくましくルースつくられてゆくさまを炎天の愛と見つる思い
→ 具体的なところがいい。 - 煮びたしを寒く食いいる残業のわが耳が飼うひとつの谺
→ 「煮びたし」がいい。 - 今日を越えゆく身ののめり平行棒を越えて視線の中に刺さりつ
→ 映像が鮮やか。 - 遠き以前の己れの〈
否 〉が聞え来る耳痛きまで深く潜れば 輪タク でゆく街夕方のさざめきからはみだしている旅人なれば- 夏の晩餐蜩満つる山荘に酔い早きかな血縁ふたり
- わが神を細く無残に削りゆくゴスペル・ソング磨く口の歯
- 少年の森を少年が
伐 り拓く日曜の燃えたがる目をして
こうして並べてみると、皆が選んだ「私の好きな一首」は、凸部分の多い歌集『群黎』の凹部分、つまり静かでナイーブな部分に寄っているような気がします。強い言葉が並ぶ中にこういう歌がときどき入っていると、妙にぐっときてしまう。その辺りに、『群黎』が「もてる」秘密があるのかもしれません。
佐佐木幸綱の「男歌」な部分と、そうでもない部分。どちらも堪能できる濃厚な一冊でした。
さまよえる歌人の会へのご参加・お問い合わせは、石川美南 shiru@m13.alpha-net.ne.jp まで。連絡用のメーリングリストをご案内します。
次回は1月24日(土)。取り上げる歌集は、服部真里子『行け広野へと』です。