堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』を読む
みんな大好き、『やがて秋茄子へと到る』
今回取り上げるのは、堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(2013、港の人)です。
- 美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している
- 太陽が冬のプールに注ぐとき座って待っていたこんな薔薇
- 春の船、それからひかり溜め込んでゆっくり出航する夏の船
- ぶち撒けた春の悲しみから僕は小さな花を見つけてつまむ
- ロシアなら夢の焚き付けにするような小さな椅子を君が壊した
ひとまず、私の好きな歌の中から、目に付いた5首を引用してみました。
堂園昌彦は1983年生まれ。2000年に短歌を作り始め、2003年に結社「コスモス」と「早稲田短歌会」に入会。2007年に「やがて秋茄子へと到る」30首で短歌研究新人賞の最終候補に入り、注目されました。現在は、同人誌「pool」に所属するほか、「ガルマン歌会」を運営しています。結社(現在は退会)、学生短歌、新人賞、同人誌、超結社歌会と、短歌を巡る様々な場を少しずつ経験してきたことになります。
『やがて秋茄子へと到る』には19歳から29歳までの195首を収録。これは絞りに絞った結果ではなく、作った短歌のほとんどを収録したとのこと。11年で195首ですから、平均すれば1年に17首。どんだけ寡作なんだ、と思いますが、1ページ1首のストイックな文字組みからも、1首1首を作り上げるのに心血を注いできたのであろう作者の美意識が伝わってきます。
A5判変型(少し縦長)でフランス装、金属活字活版印刷の美しい装丁は、第 48 回造本装幀コンクールで「日本印刷産業連合会会長賞」を受賞しました。書店で見かけて思わず手に取ってしまったという人も、多いのではないでしょうか。
さまよえる歌人の会で取り上げたのは今年6月。レポーターは、花山周子さん(塔)と染野太朗さん(まひる野)。司会は石川美南、参加者数は34名でした。ここ最近では最も参加者が多く、この歌集の人気の高さがわかりますが、30人を超えると勉強会で一体感を保つのはかなり難しくなります。全員の意見をじっくり聴くなら、20人くらいが理想ですね(と、司会の力量不足を棚に上げてみました。せっかく参加して下さったのにあまりご意見伺えなかった方、ごめんなさい!)。
あらかじめ言っておきますが、以下、結構コアな話になります。時間のあるときに読んでください。
秀歌の構造
まずは、染野太朗さんのレポートから。染野さんはまず、歌集中の「秀歌」にどんな特徴があるのか分析します。
ひとつめの特徴は、「分節の粗い語彙による観念+意外なほどの具体」。ちょっとわかりにくいかもしれないので、歌に即して見てみましょう。
- 感情がひとりのものであることをやめない春の遠い水炊き
- 秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
「分節の粗い語彙」というのは、1首目で言えば「感情」や「春」ですね。「春」と一口に言っても、下位分類(「3月」、「早春」、「啓蟄」……)はたくさんある訳ですが、堂園短歌においては、「春」という大まかな単語がそのまま提出されます。「感情」という単語が使われているのも、象徴的です。普通、人が感情を意識するのは、「嬉しい」とか「悲しい」とか、具体的な心の動きがあったときですが、堂園短歌においては、それら全てを包む「感情」自体が、メタ的に捉えられています。
一方、「意外なほどの具体」に当たるのは、1首目では「水炊き」、2首目は「秋茄子」。「分節の粗い語彙」だけで構成されていると歌はぼんやりしたり、センチメンタルになりすぎたりしますが、そこに「水炊き」や「秋茄子」が添えられていることで、焦点がぐっと絞られているというのです。
ふたつめは、「見立てと幻視、その無理のない描写」。
- 球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く
- 百万枚のクリアファイルに満たされた冬の泉へ僕は近づく
球速の遅さを笑い合うだけ」といった描写の的確さ、「百万枚のクリアファイルに満たされた冬の泉」という幻視の無理のなさ。また、倒置や省略が少なく、上から下にすっと通す文体も、堂園短歌らしさと言えます。
語彙としては、「泣」「涙」「悲」「感情」「塩」「光(or ひかり)」といった単語が頻出すること、「みな」「すべて」「だけ」のように包括したり限定したりする言葉が目立つことが指摘されました。
ことばによる「抵抗」
では、前述の「分節の粗い語彙」や、「見立てや幻視」を歌に取り入れることには、どんな意味があるのか。染野さんはさらに深く分析していきます。
堂園短歌の世界では、抽象的なもの、比喩、実体のないものが、まるで実在する具体物のように見えます。たとえば、
- ほほえんだあなたの中でたくさんの少女が二段ベッドに眠る
という歌において、「たくさんの少女が二段ベッドに眠る」ことは、比喩ではなく、本当のこととして存在します。あくまでもそこは、言葉によって構築された、現実世界とは異なる別の〈世界〉なのです。
現実を介在させない〈世界〉を創り上げることで、現実に抵抗しようとする。堂園昌彦が短歌でやろうとしていることは、そういう試みなのではないか、と染野さんは考えたのです。
えーと、ちょっと話が壮大になってきました。伝わってますか、皆さん(不安げ)。この話は、次の花山周子さんの発表ともつながってきますので、ひとまず次の項目に進みます。
意志と行動の歌集
花山周子さんのレジュメにも、「文体の構築という作業から始まる高度な普遍化」というキーワードが出てきます。堂園短歌は何らかの現実の暗喩ではない。伝えたい内容が先にあって、それを言葉によって写し取っていくのではなく、「この言葉を置きたい」という作者の意志だけがそこにある。
たとえば、画家が黄色い絵の具を使って絵を描いているところを想像して下さい(これは花山さんでなく、石川がさまよえる歌人の会当日適当に考えた、下手な喩え話です)。画家の目の前にひと房のバナナがあって、このバナナをどう表現するかを考えながら描いていく。これが「現実」と「写実」、あるいは「現実」と「喩」の関係です。ところが、堂園画伯の前には、表現したいもの(=バナナ)が置かれている訳ではない。あくまでも、絵の具の色遣いや筆の運び方、それ自体に美を見出している、というイメージです。
具体例に即して見ていきましょう。まず、花山さんは、
- 振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
- 太陽が汗から水を引き剥がし塩を残していく夏の日々
という歌に注目します。「折れ曲がる」や「引き剥がし」という動詞は、水のありかたを忠実に再現しようとするならば不自然です。しかし、あえて「折れ曲がる」や「引き剥がし」という動詞を提出することによって、その動作の源にある、能動的な「力」の存在を感じさせる。
また、大仰な言葉を投入し、言葉の強弱をはっきりさせることで、韻律面でも「力」を感じさせるのが特徴だといいます。
- 太陽が冬のプールに注ぐとき座って待っていたこんな薔薇
- すさまじい秋日の中で目を瞑り優れた人達へ挨拶を
- 追憶が空気に触れる食卓の秋刀魚の光の向こうで会おう
1首目の「座って」は、具体的な薔薇の状態をうまく想像させない。また、2首目の「優れた人達」とは誰なのか、3首目の「秋刀魚の光の向こう」とはどこなのか、具体的な像を結ぶことができない。「像を結ばない」という評価は、写実的な短歌においてはネガティブな意味を持ちます。しかし、堂園短歌に限って言えば、あえてそのような言葉の配列が選択されている、その選択を味わう必要がある、花山さんは考えます。
これは、染野さんの「現実を介在させない〈世界〉を言葉によって構築する」という分析と、通じるところがあるのではないでしょうか。
こうした一種の空中戦が成立しているのは、短歌という定型の力だと、花山さんは分析します。詩的な言語が定型に流し込まれることで、散文よりも強い意志を持つ。かくして『やがて秋茄子へと到る』は、他の歌集と同じ目盛では測ることのできない、「行動(=力の行使)と意志の歌集」となっているのです。
なぜ、堂園昌彦は「行動」するのか。その動機を、花山さんは「感情、愛、を他者、世界に受け渡す」ことだと言います。一人の人に宛てた手紙に留まらない、世界全体へ向けた愛の伝達を志向している、というイメージでしょうか。
「言葉によって世界を構築する」という点では、染野さんと花山さんの意見はとてもよく似ています。しかし、「なぜそのような世界を構築するのか」という点では、二人の表現は微妙に違っていて、染野さんはそこに「現実への抵抗」を、花山さんは「愛の伝達」を見ていることになる。この辺り、面白いですね。
青春歌集としての側面
一方、『やがて秋茄子へと到る』には、紛れもない青春歌集としての側面もある、と花山さんは付け加えています。
- 春先の光に膝が影を持つ触って握る君の手のひら
- 夜がまだきみの瞳に貼りついている間に話す僕の過失を
これらの相聞歌には、具体的な「きみ」や「僕」の姿が垣間見える。一人の人に向けられているために、言葉が閉じている。従来の短歌のコードでも読み解くことのできる歌ではあるけれど、完璧に構築された作品世界にあっては異物のように見える。
花山さんは、こうした青春歌が入っていることが現時点ではこの歌集の魅力の一つになっているとしながらも、「今後は、複数のものに対する広がり(=世界への愛の伝達?)」を掘り下げていく必要があるのではないか、と課題を示しました。
パターン化に必然はあるか
レポート後、会場からのフリートークで出た意見を、項目ごとにまとめます。
世界観
- 自分自身で世界を創っていく(造物主としての自分)。オーソドックスな短歌の「われ」は覆い隠している。動機として、この世の生きにくさ、この世への怒りがあるのでは。
- 歌集の作り(配列、装丁など)自体が「抵抗」になっている。
- 線よりも色の濃淡で表わされている世界。多声音楽のように響いてくる。
- 祈りの歌集
- 被害者意識がなく、外に開かれた部分がある。
- 「君」や「あなた」の出てくる歌に好きな歌が多かった。たった一人の「君」の向こうに普遍がある。
- 低体温。この世界観に同調するのに時間がかかった。
- 全体的にわからなかった。何かを描写していると思うから読めなかったのかも。
パターン化
- 歌集の7割くらいがワンパターン。同じ語彙が何度も出てきて金太郎飴的。
- (上の意見に対して)語彙に焦点を当てると金太郎飴的に見えるが、実は色々なことをやっている。読者側がそれを読み解かないといけない。
- 金太郎飴的な部分は、むしろあるべき。止まった楽園のような世界で、どのページを開いても穏やかな気持ちになる。別の要素が入り込むとダメ。
- (上の意見に対して)歌集全体がリフレインとして機能している。「止まっている」訳ではない。
感情のあり方
- 実はどろどろとした感情も入っているが、堂園的処理によって見えにくくされている。
- 生身の肉体ではなく、言葉の激しさとして捉えられている。
韻律
- 「あ」段を多用した韻律
- 歌の中に切れが少ない。散文的
- 句跨りが多い
- 韻律がきれい
- 韻律がよくない
「私の好きな一首」コーナー
恒例の「私の好きな一首」コーナーから、幾つか引用します(矢印以下は選んだ人の一言コメントです)。
- シロツメクサの花輪を解いた指先でいつかあなたの瞼を閉ざす
→ 相聞とも読めるし、そうでないとも読める - 春の船、それからひかり溜め込んでゆっくり出航する夏の船
→ 「それから」=短い時間なのに、春から夏になっているところに発明がある - 夕暮れが日暮れに変わる一瞬のあなたの薔薇色のあばら骨
→ 忘れてしまいそうな美しい風景を切り取っている - ひかりたつ春の吐瀉物乗り越えて行き着く町のなんで夕暮れ
→ 吐瀉物も駅も暴力も、抽出していくと美しいものになる - ああゴヤが裸のゴヤが幾人も集まって暗闇に火を残す
→ 信と不信のせめぎあい - 僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る
→ 韻律がきれい - 秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
→ はじめは、「どうして死ぬんだろう」って言われてもなーと思ってた。歌集単位だとわかりやすい - 冬にいる寂しさと冬そのものの寂しさを分けていく細い滝
→ 途切れずに進んでいく文体。快楽に溢れている。美しいだけでなく苦さも - 君を愛して兎が老いたら手に乗せてあまねく蕩尽に微笑んで
→ うっとり系
『やがて秋茄子へと到る』批評会
さて、ここまで書き終えて、私は相当ぐったりしています。一首として、あるいは歌集として読んだときには「すてき!」「好き!」という声が多いのに、いざ読み解いていこうとすると、結構大変。レポートを終えた染野さん・花山さんの憔悴しきった姿からもこの歌集の曲者ぶりが伝わってきましたが、お二人のレポートによって、見えてきたものは多かったと思います。
最後に、お知らせです。
12月13日(土)の午後、中野サンプラザにて堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』批評会を開催します。前半は、川野里子さん、斉藤斎藤さん、吉岡太朗さん、田中槐さん(司会)によるパネルディスカッション(豪華!)。後半は著者を交え、会場からいただいたアンケートを元にしたディスカッションを行います。「さまよえる歌人の会」のときとは、また違った観点が出てくるのではないかと思います。『やがて秋茄子へと到る』について語りたい方、他の人の意見を聴いてみたい方は、ぜひ足をお運びください。
詳細・お申し込みはこちら 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』批評会のお知らせまで。
※ 〆切が10月17日となっていますが、多少遅れても大丈夫です。ただし定員に達し次第締め切りますので、お早めに!
さまよえる歌人の会へのご参加・お問い合わせは、石川美南 shiru@m13.alpha-net.ne.jp まで。連絡用のメーリングリストをご案内します。
次の通常回は10月25日(土)。取り上げる歌集は、木下こう『体温と雨』です。お申し込みは、10月22日(水)まで。