歌詠む男とナルシズム

漫画のなかの短歌を紹介する「漫画をよむと和歌になる?」第3回は『暗殺教室』(松井優征)、『歌男』(業田良家)、『金剛番長』(鈴木央)を取りあげます。登場人物の自作短歌が詠まれるこれらの作品。でも彼らの歌って、なんかちょっと変?
(水)
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  • 花さそふ嵐の庭のゆきならではえゆくものは触手なりけり
    [松井優征『暗殺教室』(集英社) 第1巻p.34]

 殺せんせーは中学校の教師である。彼が生徒に課した短歌の課題では、締めの7文字に「触手なりけり」を用いるという制約がつく。文法の正しさに加えて触手を美しく表現できたかが評価基準になるという。なぜこんな課題を出すのかというと、彼が何本もの触手を操る超生物であるからだ。

図1.単行本には解説がついており「鮮やかに映え、力強く生えてゆく生命とは、庭の桜を散らす花吹雪などではなく、触手だったのだなぁ。」とある。短冊と筆を持ち出すところに殺せんせーの和風指向も感じさせる。[松井優征『暗殺教室』(集英社) 第1巻p.34]

掲出歌は殺せんせーによる見本だ。〈花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり/藤原公経〉の本歌取りである。「はゆ」は〈映ゆ〉と〈生ゆ〉の掛詞であり、本歌が〈降る〉と〈経る〉を掛けているのに対応する。

 「はゆ」としたことで雪の煌めきが表現され、本歌の主題であった老いへの悲哀は、自身の生命=触手への賛歌に逆転するのだ。と書いてはみたが、いかにも和風で雅やかに構成された世界に触手がねじ込まれている無理やり感は否めない。そうまでして自らの触手を賛美したい、また生徒に賛美させたい殺せんせーの姿がユーモラスである。

 登場人物が短歌を詠む漫画はいくつかあるが、掲出歌のようにあえて「ヘタクソ」に構成したと見られる例もあるのだ。

『歌男』の歌のヘタさ

  • 死にそうな夏の終わりの蟬の恋死なぬ思ひをわが声は鳴き
    [業田良家『歌男』(集英社) p.4]

 主人公の仙道春樹はかつての気鋭の歌人であると作中で説明されるのだが、彼の歌は率直に言ってヘタだ。掲出歌は女性へ贈った恋の歌だが、相手は唖然としている。

図2.このコマには二段階の時間の流れがある。一つは歌(右)が読まれた瞬間。そしてもう一つは、歌を聞いた左の女性が二の句を告げないでいる時間の経過だ。ツクツクボーの蝉の鳴き声がその間の沈黙を表す。ここでも短冊が登場し、別場面では仙道が毛筆で歌をしたためる姿がある。[業田良家『歌男』(集英社) p.4]

仙道の歌のヘタさは、例えば蝉の死から夏の終わりそして恋につなげる工夫のない発想、「死にそうな」と「蝉」の間に「夏の終わりの」が入る修飾関係の混乱、また「死にそうな」「終わり」は現代仮名遣いなのに「思ひ」が歴史的仮名遣いで不統一な点などいくつも指摘できる。

 キャラクターとしては、和服を着込み、「ひとーつ人は世につれ世は歌につれ」(p.3)と口上を述べたり、傘を刀のように帯に差したり、和を過剰に纏った形で描かれる。また、図中の女性はこの後トラックに撥ねられるのだが、仙道はそれを知るや「ケガ人が恋人なんてやだ」(p.9)と手の平を返す。この発言には彼のプライドの高さが滲み出る。自身の完全さを信じているからこそ、パートナーになるべき人にも完全さを求めるのだ。

 和へ心酔した様子、プライドの高さ、そして恋の歌を贈るときの自信満々な雰囲気から、仙道がかなり自惚れの強いキャラクターであると分かる。しかし肝心の恋の相手に呆れられてしまうため滑稽だ。彼に似た歌詠みは他の漫画にもいる。

居合番長と和歌と「日本人」

 『金剛番長』では東京23区に一人ずつ置かれた番長達が覇権をかけて命がけのバトルを繰り広げる。荒唐無稽な設定だが、登場人物たちはあくまで真面目に物語に向き合うので、それが読者の笑いを誘う。

 登場人物の一人である居合番長(桐雨刀也)は、その名の通り居合の達人だ。和服に帯刀という出で立ちで、敵への手向けの生け花を制作したり、和服をまとった日本女性の美しさを語ったりと、和への過剰な傾倒が見られる。

図3.桐雨流居合術零式「白羽捻り」が決まったシーン。コマの半分近くをしめる筆文字が和風をいっそう強調する。なお歌は伊達政宗の辞世の句だが、単行本に引用註等はないので居合番長の自作という体裁だと解釈できる。したがって筆書きは居合番長にとっての自作の最適な表現方法である。[鈴木央『金剛番長』(小学館) 第4巻p.181]
  • (くも)りなき(こころ)(つき)先立(さきた)てて浮世(うきよ)(やみ)()らしてぞ()
    [鈴木央『金剛番長』(小学館) 第4巻p.181]

作中では必殺技が決まった場面に必ず短歌が添えられるが、いずれも歴史上の人物の短歌の流用である。よって居合番長の詠んだとみられる短歌に素材や文法上の粗はない。

 また彼は作中で次のように語る。

かつて、日本人は自然の美しい情景に心ふるわせ(うた)を詠み、四季のうつろいに心和ませた。
……だが、今やどうだ?感性や思想を失い、物質的な豊かさの中にしか価値基準を見いだすことができぬ愚民共により国は崩壊を迎えつつある。
(第1巻p.154)

愚民という物言いが高い自尊心をよく表す。彼によれば、現代の日本人は和の心を失うことで感性と思想までも失ったという。将来の日本を背負わんと意気込む彼の言う「思想」は、広範な知識、構造を把握する力、理想を実現する方策を立案する力など、政治家がキャッチコピーに使いそうな知性が生み出す力を感じさせる。引用した台詞は、日本人の「心」という曖昧なものに、感性だけでなく現代が求める知的な能力を結びつけようとしているのだ。もっとも、日本の伝統芸術と知性と言ったとき思い浮かぶイメージもある。かつて日本の貴族階級の人々が共有した和歌の世界である。和歌を嗜むには、和歌を沢山知っているだけでなく、機に応じた歌を引用して再構成する能力も必要となる。このシーンでは、現代人が評価するインテリジェンスと古き良き日本に結び付けられた才学を混ぜあわせた「日本人としての教養」のイメージを作り上げようとしているのである。

 居合番長は「日本人としての教養」を信奉しており、また自らがそれを持つことを疑わないキャラクターとして描かれる。しかし彼の自身とは裏腹に、和服に着替えさせたヒロインの美しさを誉めるも「まさか、こんな格好で変なプレイをしようって言うんじゃ……」(第1巻p.131)と恐れられてしまう。

滑稽なナルシストは歌を詠んでしまう

 漫画のなかで短歌を詠むキャラクターが登場すると、ナルシストでかつ滑稽に描かれるパターンがあるようだ。紹介した三作品には共通点が二つある。第一にキャラクターの自己評価の高さを描いている点で、彼がナルシストであることを示すものだ。第二にそのキャラクターの失敗を、読者に判る形で表現している点だ。この「失敗」は、高い自己評価に反するものであり、かつ本人は失敗だと気づかないまま物語が進むという特徴が見いだせる。ナルシストが「失敗」する様を描くことは、自己評価と他己評価のギャップを明らかにすることであり、彼の愚かしさを示すことでもある。「失敗」によってナルシストを滑稽に描くことができるのだ。

 第一の条件を表現するのに短歌がどのような機能を果たすか考えてみよう。例に挙げた作品はいずれも現代の日本が舞台になっている。現代の日本人が和歌らしい和歌を詠もうとしたら、古代の人々の言葉や価値観を学ばなければならない。つまりは古語を覚え、文語や歴史的仮名遣いを修得し、あるいは歴史を学び古代の人々の生活に想像を及ばす能力が必要だ。現代的なインテリジェンスを駆使することではじめて和歌を詠むための感性は身につけられるのである。今回紹介した各キャラクターは自作の歌に文語または歴史的仮名遣いを用い、また歌を筆書きで表現しようとする。他にも殺せんせーは雅やかな語彙で和歌を構成しようとし、仙道や居合番長は過剰に和装しているなど、彼らが「日本人としての教養」に強く傾倒していることが窺える。この傾倒の様子と並行しながら彼らを自信家に描くことは、つまるところ、彼らの教養人としての強い自負を表現することだ。加えて己の芸術的な能力への確信をも読者に感じさせるだろう。他にも、彼らのナルシズムの高まりを歌で示す演出は見受けられる。例えば殺せんせーは歌のなかで自身の身体を賛美するし、仙道は恋の歌を贈ってモテることを疑わないし、居合番長は必殺技を決めて敵を凌駕した瞬間に歌を詠む。ナルシストとして描かれる彼らが詠む歌は、その高い自尊心の結晶なのだ。

 一方で高すぎる理想がたたって、本人は気づいていないが他人から見ると明らかに失敗しているという事態が起こってしまう。殺せんせーの試みた触手と詩趣との接合は、むしろ雅を壊す結果になった(*1)。仙道は恋の歌を贈答しようとするが、ヘタさゆえ気持ちは伝わらず相手に逃げられる。居合番長の短歌には明らかな粗がないために、彼の生き方の時代錯誤さが際立ってしまう。その甚だしさが、女性からの変態扱いという結果を生んだ。

 以上のように、ナルシストを滑稽に描こうとするとき、高い自己評価と失敗の両方を表現できる短歌は効率が良いようだ。

 彼らの自尊心の中核にある「日本人としての教養」のイメージは、ときに「日本人としての誇り」と結び付けられ、様々なメディアに流通している。短歌はその教養の具体例として利用されるということが、いくつかの漫画を読むとよくわかるのである。

*1 殺せんせーのケースで「失敗」と判定する他人の役は、読者が担う。図1に示したように、歌のイメージを表した絵は宮中風の庭に触手が生えている。ほとんどの読者はそれが「雅」とかけ離れた奇妙な絵面だと見なすだろう。

なぜ彼らは男性なのか

 今回挙げた三つの例では短歌を介してナルシストを滑稽に描いているが、そのキャラクターはいずれも男性であることに気付く。

 この理由を考えるために、まず創作物で描かれる滑稽でないナルシスト、つまり「失敗」していないナルシストを思い浮かべてみよう。「失敗」していないナルシストを描くには、そのキャラクターの自信が妥当である(自己評価と他己評価が一致している)と読者に示さなければならない。読者と製作者は、伝統的に信じられてきた男性/女性の理想像を共有している。とすれば、彼/彼女の自己評価と他己評価の基準として、性別に沿った伝統的な理想像は利用しやすいものである。男性においてそれは全方位的な優位性を持ち、また他人に依拠しない自立性があることだ。一方で女性のそれは、称揚される容姿や奥ゆかしさを持つことだ。だから創作物における典型的なナルシストは、男性ならば完全無欠に、女性ならば美しく描かれる(*2)ことが多くなる。

 次に、ナルシストをあえて滑稽に描く場合はどうなるか。典型的なナルシストである彼/彼女の「失敗」を描くならば、その「失敗」は自己評価の内容に反するものになる。ということは、ナルシスト男性は自己評価が全方位的に高いために、「失敗」の仕方を如何様にも描くことができる。今回例に挙げた男性キャラクターたちの「失敗」は、短歌に絡めつつも三者三様であった。片やナルシスト女性の「失敗」の内容は、「容姿が美しくない」か「奥ゆかしくない」の2パターンに集約される(*3)。よってナルシストの「失敗」を描く場合、男性キャラクターならば短歌を絡めたバリエーションを作りやすいが、女性キャラクターでは短歌を絡めることが難しくなるのだ。このような背景によって、短歌の出てくる漫画でナルシストを滑稽に描こうとする場合は、男性のキャラクターばかりになるのだろう。

 なお、「ナルシスト」の男性キャラクターの自己評価は自己完結しているために、「失敗に本人だけが気づかずにいる」状態を読者に納得させやすい。これは特に短歌に限定されることではないだろう。ということは、もしかすると創作物全般で「滑稽なナルシスト」は男性キャラクターであることが多いかもしれない。

*2 「奥ゆかしさ」と「自尊心の高さ」は相反する性質である。よって「奥ゆかしさ」に「自信を持つ」キャラクターは、存在しえないものが存在するという点で根底から「失敗」している。
*3 前者は『ちびまる子ちゃん』のみぎわ花子、『サザエさん』の花沢花子など。後者は『YAWARA!』の本阿弥さやかなど「オホホ」という笑い声を伴うようなお嬢様キャラが典型である。
* 編集部註:文中の各コマは著作権法にて定められた引用の範囲と判断して掲載しております。
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