たろうくん再び
みよちゃん:
先生、こないだはたろうくんがやってきたせいで、わたしがサブキャラ扱いだったね。ちょっとかなしかった。
けんじろう先生:
前回はみよちゃんが来るまえに盛り上がっちゃったからね。たろうくんも評判がよくて喜んでたみたいだよ。
みよちゃん:
またたろうくんが来ちゃったらちょっとやだな。だってわたしサブキャラじゃないもん。主役のはずだもん。
先生:
んー、でもたしかたろうくん、この間たのしかったからまた時間があったら来るって言ってたなあ。
みよちゃん:
えー。
たろうくん:
みよちゃんも先生も物騒な感じだけどどうしたの?
先生:
噂をすればたろうくん!
みよちゃん:
えー。きょうは何しに来たの?
たろうくん:
うん、ちょっと先生に訊きたいことがあってさ。
先生:
さすがたろうくんは勉強熱心だね。先生関心しきりだよ。
具体ということ
たろうくん:
でさ、きのう中学校の歌会で、歌は具体的なほうがいいって言われたんだけど、具体的っていうのがどういうことか考えてるうちに分かんなくなっちゃったの。
先生:
んー。もうちょっと説明してくれるかな?
たろうくん:
うん。たとえば「バナナ」って詠んだときに、そのバナナはバナナだから具体的な気もするんだけど、バナナっていう概念を同時に指してるようにも思っちゃう。
先生:
たろうくん、それは大事なところを掘り下げてきたね。
みよちゃん:
わたしもおんなじこと思ったことある!「バナナ」っていう具体物を出しても、それが歌のなかで抽象的なものに変形しちゃう感じ。
先生:
みよちゃんも深まってきたねえ。
たろうくん:
だから、ただモノを歌に入れたからって、「具体的」な歌になるとは限らないんじゃないかって。
一本の釘
先生:
たろうくんはタケノコのように成長してるねえ。伸び盛りだね。 たとえモノを歌のなかに入れても、すぐに具体的な歌になるわけじゃないというのはその通り。
生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘 寺山修司『田園に死す』
この歌では「一本の釘」が一般に言うところの「具体的なモノ」だけれども、歌のなかではとても抽象的な存在になっているんだ。「一本の釘」だけだったら具体的なのに、一首の全体性から見ると一転して抽象的になる。
たろうくん:
なんでだろう。なんだかむずかしくなってきて目がしょぼしょぼしてきた。
みよちゃん:
これって、「一本の釘」が一首を最適化するための道具みたいに使われているのかな。具体的なモノの、もう少しごつごつした存在感がきれいになめされてるように見えるかも。
先生:
みよちゃん、さすが察しがいいや。
たろうくん:
なんで? ぼく、ぜんぜんわかんないよ。もうやんなってきた。
ナビスコとカルビー
先生:
たろうくん、ここはけっこう繊細なところだから、なんとなく感じられれば大丈夫。
たろうくん:
そうなの? なんとなくで大丈夫?
みよちゃん:
わたしもなんとなくだから、きっと大丈夫だよ!
先生:
ちょっと例え話をすると、たろうくんもみよちゃんもポテトチップスは好きかい?
たろうくん:
ぼく大好物! 去年の文集の「好きなもの」の欄はポテトチップスってちゃんと書いたくらい!
みよちゃん:
わたしはあんまりかな。だって油がすごいし。
先生:
両極端だね。で、ポテトチップスの作り方には二種類あるのを知ってる?
たろうくん:
二種類あるの?
先生:
有名なやつだとナビスコのチップスターとカルビーのポテトチップス。どっちもコンビニに売ってるね。
みよちゃん:
先生、どっちもおなじポテトチップスじゃん。
先生:
いや、じつはよく見てみると違うんだ。カルビーはジャガイモを輪切りにして揚げているけど、ナビスコのはジャガイモを一度粉にして、それを丸いかたちに固めてから揚げてるんだ。
たろうくん:
あ、そういえばチップスターって、ぜんぶおなじかたちしてる!
それぞれの一長一短
先生:
そこによく気づいたね。やっぱり中学生はひと味違うなあ。今ポテトチップスの話を例にしたんだけど、短歌のなかの「具体的なモノ」についても同じようなことが言えるんだよ。現実の「一本の釘」をいったん粉状にして、一首のなかで再度その釘のかたちに戻しているんだね。だから、歌に最適化した「一本の釘」を作者が自在に形づくれるし、最適な場所にその釘を配置できる。
たろうくん:
チップスターだ! これならどんどんいい歌ができそうでわくわくする!
先生:
そうだね。ただ、これだとなかなか作者の意識以上のものが生まれてこない可能性があるんだよ。現実のモノが作者の統制を受けることでより抽象的な存在に寄ってしまうことにもなる。また、モノが本来もっていたはずの勢いが削られるかもしれないね。そうすると、具体的なモノを歌に取り入れているように見えても、実はそれって、似た、違うものに変化したものなんだ、という見方もできる。
みよちゃん:
そっか。いいことばっかりじゃないんだ。
先生:
一方で、カルビーのほうは現実のモノの存在感が保たれる部分が大きいところは良い面だけど、それが必ずしも歌に最適な状態で一首のなかに入ってくれるとは限らないんだね。
たろうくん:
こういうの一長一短って言うんだっけ。
先生:
一長一短。たろうくんが的確にまとめてくれたから、きょうはここまで。
たろうくん:
でもぼく、チップスターもカルビーも大好き!
解説
短歌を、作者が律するものと考えるか、作者の手を離れたところにあるものと考えるかは、作家性の根本となるものです。そこが端的に表れてしまうのが、一首のなかの「具体物」なのではないでしょうか。今回は二種類のポテトチップスを例にしましたが、どちらに優劣があるわけではありません。ただ、自身の作品がそのどちらを向いているのかをあらためて見つめてみることも、ときには必要となるかもしれません。それぞれの長所、短所を自分なりに理解することが、短歌の生理の一端を知ることにもなります。短歌の生理の一端を知ることは、詠み手としての懐のふかさへとつながってゆくはずです。本文では、寺山修司を一方の代表的な歌人にあげたのみですが、他方の代表歌人としてぱっと思い浮かぶのは森岡貞香という歌人です。森岡貞香の歌集はなかなか手に入らないかもしれませんが、機会があったらぜひ手にとってみてください。
季節の植物
妻子率て公孫樹のもみぢ仰ぐかな過去世・来世にこの妻子無く 高野公彦『雨月』
肉親は唯一無二の絶対的な存在ですが、その成立の基盤にあったのはおそろしいほど確率の低い偶然です。下句で家族という関係のはかなさを思いながらも一首が乾いたあかるさに満ちているのは、公孫樹の葉のかさかさとした質感やその色彩によるものであり、さらに、今ともにいる妻や子の絶対的な存在感を、絶対的なものとして享受している信頼が読者にも見えてくるからだと感じます。きらきらとした公孫樹の葉が、実現しなかったその他の無限の出会いに重なります。