歌会で
みよちゃん:
こないだ、はじめて歌会に行ってきたんだけど分からないことばっかりでとっても戸惑っちゃった。
けんじろう先生:
おお、みよちゃんついに歌会デビューか。はじめてだと分からないことがきっといっぱいだったね。
みよちゃん:
うん。わたしね、出された歌のなかで自分の歌が一番よかったから、自分の歌に点入れたの。そしたらみんなに怒られちゃった。
先生:
それはブーだね。怒られちゃったんだ。歌会で自分の歌に点を入れるなんて、みよちゃんはなかなかのチャレンジャーだね。
みよちゃん:
えー。別にチャレンジしたわけじゃないんだもん! ただ間違っちゃったんだもん!
先生:
歌会ではどんなに自分の歌がよかったとしても、自分の歌には点を入れないという決まり、というか、うっすらとした共通認識があるんだ。ひとつ勉強になったね。
みよちゃん:
今度からは気をつけて自分の歌に点入れないようにしないと。
先生:
法律のように文章で決まっていることじゃないから初めてのときは間違っちゃうこともあるけど、大丈夫だよ。
もうひとつのブー
みよちゃん:
あとね、もう一個怒られちゃったんだけど。
先生:
おっ、今度は何やらかしちゃったかな。
みよちゃん:
評をするとき、自分の歌に当たっちゃって「これ、わたしの歌なんだけど」って前置きしてからしゃべっちゃったの。
先生:
これまたブーだね。
みよちゃん:
ちょっといきなり自分の歌で当てられて焦っちゃったの。良くないかなあとは思ったんだけど。
先生:
歌会には記名の歌会と無記名のものがあって、無記名のときはもし作者が自分の歌について評を当てられても、自分が作った歌だって言うのはNGなんだね。
みよちゃん:
うん。他の人も自分の作品だって言ったりしてなかったから、なんとなくまずいかなあとは思ってた。
先生:
これもどこかにルールブックがある訳じゃないんだけど、決まりごとみたいになっていることだね。
つまらなかった歌会
みよちゃん:
はじめて歌会に出てみていろいろ間違っちゃったから、ちょっと言いづらくてまだ誰にも言ってないことがあるの。先生、聞いてくれる?
先生:
何かな? 言ってごらん。
みよちゃん:
うん。歌会ってもう少し楽しいところだと思ってたのに、実際に参加してみたらそれほどじゃなくて。なんて言うか、あんまりおもしろくなかった。
先生:
そうかな。ほんとうは歌会っておもしろいところだよ。
みよちゃん:
んー。わたしがひとりつまんなく思ってただけなのかな。でもね、つまんなかったって感じた理由だってちゃんとあるんだよ。
先生:
なるほど。で、みよちゃんはどんな理由でつまらないと感じちゃったのかな。
既成の批評用語
みよちゃん:
なんか、評の言葉がつまんなかったの。
先生:
そうなんだ。どんなふうにつまんなかったのかな?
みよちゃん:
みんなすごいこなれた感じでそつがないんだけど、そのぶん言葉に根っこがないっていうか。例えば、「つきすぎ」とか「淡い」とかそういう言葉があって、それが口先から出てるように感じちゃったの。
先生:
みよちゃんは、そこは間違えなかったみたいだね。
みよちゃん:
なんで? つまんないって感じたのはおかしいことじゃない?
先生:
全然おかしいことじゃないよ。歌会慣れしてくると、歌会の場でさわりの良い言葉というのがあって、それを覚えるようになる。今みよちゃんが挙げた「つきすぎ」とか「淡い」とか。そういう言葉を使った評は、評された歌についてなんとなく言い得ているような雰囲気があるし、実際に言い得ていることもある。だけど、 そういう用語を覚えてしまうことで、評がインスタントなものになってしまう場合が多いんだよ。
みよちゃん:
用語を手に入れることは大切だけど、一方でそれが先入観になっちゃう危険もあるってことかな?
先生:
そうだね。たとえ「つきすぎ」の歌だったとしても、その「つきすぎ」はいったん脇に置いといて、一度まっさらな頭でその歌に対峙する時間が必要なんだ。淡い歌に対して「淡い」という評をするのも、言ってみればアイスクリームを食べて「甘い」って言うのと同じことで、当たり前のことを当たり前に条件反射で言っている場合がほとんどだったりするんだよ。
みよちゃん:
既成の批評用語はものを言った気にかんたんにさせてくれるけど、それだと歌の良し悪しがきちんと見極められないこともあるんだね。でも、間違ったことを言っちゃうのが怖いから、ついついこういう既成の用語を使っちゃいたい気持ちになったりすることもあるんじゃないかな。
ツッコミを入れる
先生:
漢字の読み方とか、慣用的な言葉の意味の取り違いというのはあるかもしれない。ただ、歌一首の読みに絶対的な正解はない。いくら作者に明確な意図があっても、短歌という短い詩型では作者の意図が絶対の正解にはならないと思うんだ。
みよちゃん:
でも、わたしが作者だったら、やっぱり意図通りに読んでもらったほうがうれしいような気がする。
先生:
たしかにそれもわかる。ただ、一度作者の手を離れた作品は作者だけのものじゃなくなるし、より作品の魅力が増す読みが作者の意図とははずれたところから出てくることもあるんだよ。
みよちゃん:
んー、そっか。で、評をするときには結局どういうスタンスでやればいいの?
先生:
ひとつの分かりやすい方法として、自分がした最初の読みに自分でツッコミを入れてみる、っていうのがあるよ。自分の読みに自分でツッコミを入れると、そこから別の読みが生まれてくることもある。そうして生まれた複数の読みのなかで、これだ!っていう読みを見つけていく。
みよちゃん:
そうすれば、既成の批評用語でインスタントな評になっちゃうのも避けられるし、たくさんの読みのなかから一番いいと思う読みを出せるね。
解説
ある程度歌会に慣れてくると、簡単で効果的な批評用語をたくさん耳にし、それを使って評をするようになってきます。本文で取り上げた「つきすぎ」「淡い」はその代表例と言ってもいいでしょう。もちろんそうした評言が適切である場合もあるのですが、むしろそうした用語を使用することで生まれる弊害(その語を使用して発言することで、何か言った気になってしまうこと)のほうが往々にして多いように感じます。
短歌の読みというのは、ある固定化した基準に作品を当てはめてその良し悪しを判断することではありません。一首をつくるのと同じくらい創造的なものであり、もっと流動的でスリリングなものです。ぜひ歌会の際には、自分にツッコミを入れながら自分の読みを磨いてみてください。
季節の植物
あちこちで鏡が反射するような公園に冷たいどんぐり拾う 花山周子『風とマルス』
公園に光がさしこんでいます。太陽の光は一方向から来るものですが、公園という場においては、感覚的にあちこちで光が生まれているような気持ちになることがあったなあ、と思い出させてくれる歌です。下句では視点が地面に移され、そこにあるどんぐりに触れます。触れたときの小さいけれどもたしかな冷たさ。小さなどんぐりに対する接触のよろこびがかすかにあるかもしれません。上句の表現も冷ややかな空気を連想させますが、その冷たさはぼんやりとしたものです。風景のぼんやりとした冷たさのなかで、どんぐりのかちりとした冷たさに出会うことで、よりどんぐりの存在が際立っています。