大前提
いま世の中には「短歌入門書」というものが数々出版されています。また、短歌の雑誌をひらいてみると、添削コーナーがあったり、文法の解説コーナーがあったり、著名な歌人たちが何かしらを読者に教える、というスタンスのものがけっこう多く見られます。そうした入門書等で述べられていることは、当然どれも一理ある話なんですが、あなたにとって100%の正解かというと、答えは「否」です。「わたしはこう思っているけど、あの人がああ言うならわたしが違っているんだろう」なんて特に短歌を詠むことに関しては、基本的には思わなくていいです。どんな歌詠みでも、まったく短歌に迷うことなく歌をつくっている人はいません。「こんなコーナーをやるくらいだから内山という人は短歌について迷いのない人なんじゃないか?」と思う人もいるかもしれませんが、わたし、がんがんに迷いますから! 要は、「短歌入門書」なんかで言われていることをそのまま鵜呑みにするのではなく、いったん自分で咀嚼して違和感があったらそれを吐き出してください。知っていること=咀嚼することは大事なことですが、知識に縛られることはありません。ですので、このコーナーの話も自分の感覚に照らし合わせ、疑いながら読んでみることをおすすめします。
けんじろう先生とみよちゃん
先生:はーい。おはよう。みよちゃん元気?
みよちゃん:おはようございます、先生。
先生:みよちゃん、元気?
みよちゃん:おはようございます、先生。
先生:みよちゃんは頑なだね。それではきょうは短歌の鉄則と言っても過言ではない「ものをよく見る」ということについて探求してみましょう。
みよちゃん:探求って言われても、先生、わたしまだおととい短歌はじめたばっかりでちょっとなんかダルいんですけど。
先生:みよちゃんは相変わらずマイペースだね。でも、先生もマイペースだからたんたんと進めるよ。
みよちゃん:はーい。
現実と空想
先生:では、なんで「ものをよく見る」というのが短歌の鉄則のように思われているんでしょうか。
みよちゃん:昔の偉い人がそう言ったからじゃないんですか。
先生:ざっくりだねえ、みよちゃん。でも意外と的確かも。さすがみよちゃん!
みよちゃん:そりゃあ、もう短歌はじめて三日目だもん、あたし。
先生:やっぱりさすがだね! で、なんで昔の偉い人はそう言ったんだろう。
みよちゃん:んー、分かんなーい。でも、現実のほうが空想よりも価値があるものと思ってたのかなあ。
先生:なるほど。じゃあ、「空想したものをよく見る」ということはできないかな?
みよちゃん:そうねえ、空想したものが現実みたいにはっきり仕上がってたら、それをよく見る、っていうこともあるかも。
先生:そう、「ものをよく見る」という言葉には現実と空想の区別はないんだけど、どうしても(現実にある)ものをよく見る、という意味に傾いちゃうんだよね。
みよちゃん:ふーん。じゃあ、実際にはよく見るものの対象は、現実でも空想でもいいんだ。ところで先生、ちょっと疑問なんですけどものをよく見ても、それをそのまま短歌で表現することってできるのかな。
言葉はサイズがデカい
先生:来たねー。そういうのいいね。短歌って五七五七七が基本だから三十一文字しかないんだよね。そうするとよく見たものをそのまま短歌にするっていうのは実際難しいことなんだ。
今しばし麦動かしてゐる風を追憶を吹く風と思ひし 佐藤佐太郎『帰潮』
という歌があるんだけど、たとえばこの歌のような麦の景色をよく見て、十本の麦の穂のうち七本をかすかに揺らし、やや折れ曲がっている三本をはげしく揺さぶる風が吹いていたとしたら、それを正確に短歌にするには三十一文字ではとうていおさまらないと思うんだけど、どうかな。
みよちゃん:うん。わたしだって算数くらいできるからそれくらい分かるよ!
先生:だよね。そうすると、ものをよく見てもそのことと、よく見たものを正確に短歌へうつすことはイコールじゃないんだ。言葉ってふだん思っている以上にサイズがデカいから、詳細に述べようとするとたくさんの修飾語をつけて限定していかなきゃいけなくなるんだよね。たとえば、りんご。りんごだけだと青りんごかもしれないし、赤いりんごかもしれない。青りんごだとして、それが長野産のりんごだったり、アメリカ直輸入のりんごだったりする。
みよちゃん:なんか分かる。
先生:りんごそれ自体は、文字としては三文字で小さく見えるし、りんごも物体としては8センチくらいだから、小さいんだけど、「りんご」という言葉は今みたいに修飾語をつけて限定していかないと、世界中のりんごまるごとを指してしまうものなんだね。そういう意味で「りんご」という言葉はサイズがデカいんだよ。で、短歌という三十一文字では、ものをよく見ても、言葉にする際、その言葉の修飾をいくつか断念しないと短歌はつくれない、ということになるとも言える。
みよちゃん:それって断念なのかな。
先生:きたねー。いい突っ込みに先生感謝するよ。断念とも言えるし、別の角度から見ればものをよく見ることでそのモノや風景や出来事の核の部分をしっかりと短歌に残す、というふうにも言えるかな。
みよちゃん:あーわかった!ものをよく見るっていうのはそのモノのエキスをしっかり吸収するってことなんだ!
佐太郎の歌のエキス
先生:現実にあるものをよく見ることは、短歌のひとつの方法なんだね。ものをよく見ていない短歌が絶対にダメってことじゃないし、さらに言えばものをよく見る、ということを強調しすぎると、触覚、嗅覚なんかの他の感覚に蓋をしてしまうおそれも出てくるから難しいところだけど、こういうスタイルで生まれてくるすぐれた作品があるということは知っておいていいかもね。
みよちゃん:ところでさっきの短歌で言ったら、どこがどうエキスなの?
先生:難しい質問だなあ、難問すぎて先生困ってるよ。
みよちゃん:がんばれ、先生!
先生:
今しばし麦動かしてゐる風を追憶を吹く風と思ひし 佐藤佐太郎『帰潮』
この歌の要は、風景をよく見ているというよりも、「茫然と風景を見ている自分」をよく見ているところかもしれないな。目の前にある植物が、かろうじて麦だと分かるくらい、そしてそれが「揺れている」というよりも、より粗い「動いている」レベルで認識している自分。そういう自分をよく見ている。もうひとつ、これは読み手の鑑賞のしかたで変わる話だけど、「麦の穂」なんて言わずに「麦」と言い、「揺れている」なんて言わずに「動きゐる」と言っていることで、つまりよく見て捉えたエキスをマクロ的にあらわすことで「おびただしさとしての総体」が立ちあがってくるという効果があるとも言えるよ。
みよちゃん:なるほどね。てか、先生しゃべりすぎ。
先生:年甲斐もなくついついしゃべりすぎちゃって喉がからからだよ。
みよちゃん:この後のビールはきっとおいしく飲めるね。
解説
ものをよく見ることを短歌の世界では「写生」という専門用語で呼ぶことがあります。もともとは絵画の世界の言葉でしたが、それが短歌の言葉として使われるようになったものです。この言葉を絶対的に広めたのが「アララギ」というグループにいた斎藤茂吉です。茂吉はそれまでの「見て写す」といったような、「写生」の素朴な定義を拡張し、見たものの核心を得るための方法として「写生」をとらえ、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。」(『短歌写生の説』斎藤茂吉)と再定義しました。こうした定義の拡張は、一技法を越えた「奥義」のようなかたちを生み出すと同時に、なんでも「写生」になってしまう「意味のバブル」をも生み出してしまうこととなり、主に「アララギ」外部の歌人とその意義についてさまざまな論争をもたらしました。
現代(ごくごく直近)の短歌では、「写生」という言葉に出会う機会はあまりないかもしれませんが、短歌を詠む上でのひとつの技法として知っておくことは大事なことだろうと思います。
季節の植物
ひたぶるに人を恋ほしみし日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく 岡野弘彦『冬の家族』
この歌には「ひたぶるに」「人」「日」「ひとむら」「火」と「ひ」の音が5つ続いています。こういう歌に対しては、よく同じ音が一首を統べていて良い、などと言いますが、同じ音が続いている=良いというのはちょっと図式的な読みになります。上に掲げた岡野弘彦の萩の歌では、「ひたぶるに」の「ひ」、「人」の「ひ」、「日」の「ひ」、「ひとむら」の「ひ」と「火」の「ひ」のボリュームの違いがすぐれたところです。前4つの点在する「ひ」が、最後の「火=ひ」でひとつになり発火します。その発火の間合いがこの一首の醍醐味です。