ぼんやりした悩み
たろうくん:
ぼくは短歌をつくりはじめて3年目の中級者だけど、今までとは違う悩みが最近出てきちゃったの。
けんじろう先生:
先生、たろうくんのその悩み知りたいな。
たろうくん:
聞いてくれるの? えっとね、作り始めてからしばらくは毎日たのしくて、歌もじゃんじゃんできたんだけど、最近はちょっと変わってきたの。
先生:
歌がじゃんじゃんできなくなっちゃったのかな。
たろうくん:
歌はね、今でもちゃんとできるんだけど……。
みよちゃん:
あっ、またたろうくんが先生独り占めしてる!
先生:
おー、みよちゃん。ちょうど今、たろうくんの短歌相談がはじまったところだよ。みよちゃんの参考にもなると思うから一緒に聞いてみようね。
みよちゃん:
うん、たろうくんの悩みごとわたしも聞いてみたい。
たろうくん:
あのね、歌はちゃんとできるんだ。ただ、なんかこれでいいのかなってぼんやり思うことが多くなったっていうか。
雨の日の公園
先生:
ただ楽しいだけじゃなくなってきたんだね。
たろうくん:
そうなの。自分で良いと思う歌ができることもあるのに、その「良い」がいつも通りの「良い」になっちゃってる気がするの。
みよちゃん:
いつも通りの「良い」じゃだめ?
たろうくん:
だめなような気も、だめじゃないような気もする。
先生:
先生の推測が正しければ、たろうくんがい言ういつも通りの「良い」は、一面では短歌の定型がたろうくんの体にあったものになった、っていうことでもあるんだよ。
みよちゃん:
どういうこと?
先生:
一般的に、短歌の定型は、誰もが共有できるものだって思われているし、たしかに57577という言葉の数としてはその通りなんだけど、定型はたんに言葉の数の話だけじゃないんだ。
たろうくん:
うん、定型が前よりもぼくのものになったような感覚はあるかも。でも、それといつも通りの「良い」と、どういう関係があるの?
先生:
たろうくんが自分の体に合った定型を手に入れた、というのは別の側面から見てみると、それはたろうくんの定型には、たろうくんの言葉が流れていくみぞが掘られている、ということでもある。
たろうくん:
みぞ? それといつも通りの「良い」って関係あるの?
先生:
そうだよ。雨の日の公園を思い出してごらん。公園の硬い地面を見てみると、雨の道ができて、川みたいになっているところがあるよね。
みよちゃん:
見たことある! そうか、なんとなくわかった!
定型のみぞ
みよちゃん:
みぞがあると、そこにある水はなんにもしなくても、同じ方向に、同じように流れていくけど、定型と言葉の関係にもそれと同じ作用があるってこと?
先生:
よし来た! 今日のみよちゃんは冴えわたってるねー。
たろうくん:
そうか!いつも通りの「良い」がもやもやするわけがちょっとクリアになってきた。
先生:
たろうくんのもやもやは自分の定型感覚を手に入れるのと表裏一体のものなんだ。歌をつくり続けることで定型にできたみぞ。そのみぞはたろうくんが長い時間短歌にかかわってきたことの証だし、たろうくんの作家性の源にもなってくる大切なものなんだよ。それはある面では「文体」と呼ばれるものにも関わってくる。自分のみぞを持つことは、自分の定型を持つこととニアイコールなんだ。
みよちゃん:
わたしはまだつくるのが楽しくて、歌をつくるたびに発見がある段階なのかな。これからがんばってみぞができるくらい歌を読もうって気になった。
先生:
みよちゃんも、つくっていくうちにきっと自分のみぞができてくるよ。
みよちゃん:
うん!
先生:
ただ、このみぞに沿って言葉が流れていくばかりだと、いつも通りの「良い」歌ばかりになってしまうおそれがある。
たろうくん:
このみぞができると、言葉の流れがさっきの雨の日の公園みたいに、気づかないうちに勝手に生まれてしまうんだね。自分では考えて言葉をつらねている気持ちでいても、じつはみぞの引力に引っぱられているのか。
先生:
そう。人間の思考や感受性はひとりの人のなかにそうそういくつもパターンがあるものじゃないし、それが定型におさめられることでより加速してしまうんだね。
みよちゃん:
じゃあ、たろうくんはこれからいったいどうすればいいの?
たろうくん:
そうだよ先生。ぼく、いったいどうすればいいの?
みっつの選択肢
先生:
それはたろうくん次第。
たろうくん:
えー! せっかくもやもやが晴れてきたのに、もっとその先を教えてよ!
先生:
たろうくんの気持ちもわかるし、別にもったいぶるつもりはないんだよ。ただ、ここから先をどう進んでいくかは、たろうくん次第なんだ。
みよちゃん:
そっか、ここから先はたろうくんがだれかに教えてもらうところじゃなくて、たろうくんが選んでいくところなのかな。
先生:
ヒントとして大きくみっつ、選択肢をあげると、ひとつは今たろうくんが持っているみぞを意識的に使わないで、また別のみぞを模索すること。
たろうくん:
えー! せっかく長い時間かけてみぞができたのにそれを使わないの!?
先生:
そう。たとえば近代の歌人では前田夕暮という人が代表格だよ。
たろうくん:
でもこの作戦はちょっとぼくには合わないよ、きっと。
先生:
次の作戦。今持っているみぞをとことん掘りつづけること。
みよちゃん:
これっていちばん簡単じゃん!
たろうくん:
だね。ぼく、これにする!
先生:
ふたりとも! それはきわめて安易だよ。これはいちばん簡単そうに見えるけど、簡単そうに見えてじつは難しいんだ。だって、たろうくんが感じていたようなもやもやがずっと続くんだよ。いつも通りの「良い」をえんえんと積み重ねていくことで、その先に行こうとするって、なかなか大変だよ。
たろうくん:
じゃあ、もうひとつは?
先生:
もうひとつは、歌の内部から変えようとするんじゃなく、外部環境の変化、たとえば年を重ねることや結婚したり、子どもが生まれたりすることによって与えられる作品への影響を受け入れること。
みよちゃん:
これも一見簡単そうだけど、やっぱり長い時間がかかるね。
たろうくん:
いつ外部環境の変化があるかわからないし、その変化が歌に良い方向で影響するとは限らないし……。んー、難しいなあ。
先生:
今すぐに決めなくちゃいけないことじゃないから、たろうくんは焦ることなくじっくりと考えればいいんだよ。
たろうくん:
そっか、今日決めなくてもいいんだもんね。じっくり考えてみる!
解説
57577の定型は、万人に共通のものと思われがちですが、その定型内部がどのような動きをするかは、詠み手個々によってまったく異なるものです。その異なりの一因となるのが、定型に掘られたみぞです。個人的な定型のみぞは、言葉のつらなりにひとつの独自性をもたらしますが、一方では自身の短歌が無意識的に拘束される要因にもなります。
定型のみぞは、ひとりの歌人の作家性を浮き彫りにするのと同時に、その作品のパターン化へとつながっていくものでもあります。そういう意味で、なくてはならないものであり、かつ、あればやっかいなものですが、いずれにしてもそのみぞの存在を認識するのは大切なことだと思います。このみぞをとことん掘りすすめるのか、また、別のみぞを一からつくっていくのか。じっくりと悩む時間を持ってみるのも良いのではないでしょうか。
季節の植物
病とは内なるほのほしづまらぬ白水仙の立ちしまま枯る 水原紫苑『びあんか』
初句、二句で力強い定義づけがされています。病というものは肉体を衰弱させるものであり、負の存在として語られることが通常ですが、肉体を切り離して病そのものに視線を集中させたとき、そこに見えてくるのは病のエネルギー、ボルテージです。白水仙は結句の最後で「枯」れますが、結句の途中まで白い花をわらわらと咲かせています。その白さが「内なるほのほ」のイメージへと溶け込み、病という存在がむしろ清廉で力強くかつ、ボルテージみなぎるものとして描かれています。