インタビューなし
たろうくん:なんか久しぶりな気がするけど気のせいだよね、先生。
けんじろう先生:気のせいに決まっているよたろうくん。年齢を重ねるにつれて時間というのは早く過ぎていくように感じるから、きっとそのせいじゃないかな。
たろうくん:ぼくはまだ14歳だけど、たしかにもう14年も生きてるし、そのせいかもしれないや。
先生:先生なんかもう初老だから、一年が一日くらいのいきおいで過ぎていくよ。
たろうくん:ジェットコースターみたいで楽しそう!
先生:もうね、そう言われちゃうとね、力なく笑うしかないね……。
たろうくん:そういえばきょうは連載最終回なんだよね。石川さんも嶋田さんも田中さんも最終回はインタビューだったみたいだから、ぼくもインタビュー用にちゃんと蝶ネクタイつけてきたよ!
先生:残念! この短歌教室はインタビューとかないパターンなんだよ。
たろうくん:えー! インタビューされると思ったから徹夜でいろいろ準備してたのに……
先生:それじゃあ、気を取り直して淡々といくよ!
歌のなかの空間
たろうくん:そういえばはひとつ質問したいことがあるんだけど。
先生:ん? どんな内容かな?
たろうくん:うん、短歌は五七五七七のみじかい詩型だけど、そのなかにどれだけの空間があるのかなって、ちょっと思ったの。
先生:ほー! それはまた根源的なところに行き着いたね。
たろうくん:だってあんなちっちゃいUSBメモリにだってものすごいデータが入っちゃうんだから、短歌だってほんとうはきっとものすごい空間があるんじゃないかな。
みよちゃん:遅くなっちゃった! あっ、たろうくんがヘンな恰好してる!
たろうくん:ヘンなんじゃないよ! ぼくの一張羅なんだからね。この蝶ネクタイだってとっておきなんだからね。
先生:みよちゃん、こんにちは。いつも通りたろうくんの短歌相談タイムが始まったところだよ。きょうもタイミングばっちりだね。
たろうくん:で、ぼくの話つづけちゃうんだけど、その短歌の空間っていうのが気になってるんだ。
みよちゃん:わたし、そんなこと考えたことなかった。さすがたろうくん。だてに蝶ネクタイつけてないね!
たろうくん:みよちゃん、ちょっとぼくの蝶ネクタイいじりすぎ!
先生:はいはい。それでは話をすすめるよ。
エレヴェーター
先生:短歌の空間というテーマは少し漠然としているところがあるから、実際の作品を見ながら考えていこうと思うんだけどどうかな?
みよちゃん:賛成!
たろうくん:ぼくも賛成。
先生:じゃあ、この歌。
- 人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター枡目の中の鬱の字ほどに 香川ヒサ『テクネー』
この一首では、エレヴェーターという密室をまず歌の空間として規定して、そこからその中に乗っている人びとの混み具合へとイメージが移っているね。
みよちゃん:歌の空間=エレヴェーターの空間、ってなってるのがはっきりしてる。
たろうくん:うん、これはぼくにもわかるんだけど、なんかまだちょっともやもやする。
先生:ここで見ておきたいのは、「エレヴェーター」というモノが一首のなかに置かれることでそこに空間が生まれるということなんだ。これはたとえば「パソコン」でも「木」でも「桜の花」でもなんでもいいんだけれども、一首になにかモノを登場させることで、そのモノが存在できるための空間もいっしょに生まれてくるんだよ。
みよちゃん:はじめに空間があって、そこにモノが置かれるんじゃなくて、モノが、そのモノのあるべき空間を引き連れてくる感じなの?
たろうくん:そうか、なんかふつうの日常とは逆転してるね。
先生:いったんの結論として、モノが、そのモノのあるべき空間を引き連れてくる、というのはいいかな? で、この話にはさらに続きがあるんだ。
みよちゃん:なんかサスペンスみたいじゃん!
たろうくん:先生はやく続き聞かせて!
空間(1)と空間(2)
先生:どんどん続けるよ。空間にはじつはざっくり二種類ある。ひとつは今言ったモノが引き連れてくる空間。ちょっと絵画を思いだしてごらん。絵というのははじめ真っ白い紙だけど、そこにいろいろなモノを描いて、つまり色で塗りつぶして完成させる。
みよちゃん:あっ、さっきのモノがモノのあるべき空間を引き連れてくる感じと似てる!
先生:みよちゃん、きたねー。みよちゃんの直感は世界を狙えるね。
たろうくん:ぼくだってぼんやりだけど、そう思ってたんだから!
先生:もちろんたろうくんも世界レベルだよ!
たろうくん:ぼく、調子に乗ってきたからみよちゃんの話に付け加えるよ。これって、塗りつぶすことでモノが現れて、そこに、そのモノのあるべき空間が生まれるのと同時に一番はじめにあった白紙の部分は塗りつぶされてなくなっちゃうんだね。
先生:たろうくん、世界レベルの真骨頂だね。先生、いまたろうくんと握手したくなっちゃったよ。そう。モノが引き連れてくる空間を空間(1)、塗り絵の白紙部分を空間(2)とするなら、空間(1)は空間(2)を埋めることで生まれてくる。
たろうくん:でしょ!
みよちゃん:たろうくんすごい!
どっちの空間?
先生:じゃあ、次に、短歌のなかでは空間(2)は空間(1)にすべて埋め尽くされてしまうのかどうか。
みよちゃん:だって、五七五七七のなかはぜんぶ言葉で埋まっちゃってるんだから、短歌のなかで空間(2)は存在できないんじゃないの?
たろうくん:そうだよ。ぼくも「空間(2)は存在できない」に一票入れる。
先生:ここで、次の二首を見てみよう。
- 窓辺にはくちづけのとき外したる眼鏡がありて透ける夏空 吉川宏志『青蟬』
- やはらかき貝母といふ花ひとむらのげにふらふらと雨の中なり 森岡貞香『黛樹』
ここから先は少しずつニュアンスの世界にも入っていくから、「なんとなく」を大切にしていってね。
みよちゃん:んー。
たろうくん:んー。
先生:これは「んー。」で正解かもしれないね。どっちの歌も定型が言葉で埋められている。だからどっちも空間(1)のように思える。
みよちゃん:だよね。えー、なんか混乱してきちゃったかも。
先生:一首目は「窓辺」に「眼鏡」があってその眼鏡(のレンズ)に「夏空」が見えている。二首目は「貝母といふ花」が「雨の中」に見えている。どちらもモノがあることで、そこに空間が生まれているね。
たろうくん:じゃあ、やっぱり空間(1)?
目はどこにある?
先生:とも言い切れないんだよ。みよちゃん、この二首についてなんでもいいからなにか感じることはあるかな?
みよちゃん:えーと。えーとね。んーと。そう、なんとなくだけど吉川さんの歌のほうはモノがくっきりしている気がする。森岡さんのは「花」とか「雨」とかもともとがやわらかいものだっていうのがあるにしても、なんだかそれ以上にぼんやりしてるかな。
先生:なるほど。じゃあ、なんで一首のなかでモノがくっきり見えたりぼんやりしたりするのかな?
みよちゃん:集中の仕方が違うのかな。
たろうくん:吉川さんの歌のほうがモノのひとつひとつに焦点が当たっていて、一個ずつ順に見ている感じ。
先生:森岡さんの歌はどう?
たろうくん:森岡さんのはあんまりちゃんとひとつのモノを見てないのかな? 見ているのがモノだけじゃないっていうか。んー、わかんないや。
先生:ふたりともなかなかの線だよ。吉川さんの歌にはひとつずつのモノにそれぞれ焦点が当たっている。一方で森岡さんの歌はあんまり焦点が定まっていない。ところで、目というのはどこについてる?
みよちゃん:顔!
たろうくん:鼻の上!
先生:んー。前か後ろかで言うと?
みよちゃん:前?
先生:よしきた! 目というのは体の前面についてるよね。この吉川作品では体の前面の感覚をフルに使って一首ができあがっているんだ。そうすることでモノがくっきりと現れてくる。森岡作品はむしろ前面の感覚をひっこめてモノを見ている。だからモノがちょっとぼんやりしているように見える。
たろうくん:でも、このことと空間の話はどうつながるの?
前面と背面
先生:空間(1)は塗りつぶされることで生まれる、っていう話に戻すと、この塗りつぶす、つぶさないはあくまでも「前面」の話っていうことなんだ。短歌は言葉で塗りつぶされる。だからすべてが空間(1)。だけど、塗りつぶされ得る場所だけが短歌の空間じゃないんだよ。森岡作品は前面がひっこむことで短歌に背面をつけている。
みよちゃん:そうか。景色はくっきりしてないけど、歌に後ろがある感じがする。読んでてからだが雨にすっぽり囲まれてる感じ。後ろの暗さとか湿りけとかが前面の景色と同じくらいの存在感を持ってるように思う。さっき見た「エレヴェーター」の歌は、エレヴェーターというモノがもともと持っている奥行は理解できるけど、それも前面の空間のなかにある奥行なのかな。
たろうくん:香川さんや吉川さんのこれらの歌は前面の空間を100%に近いかたちにすることで成り立って、森岡さんのほうは前面と背面あわせて100%になるくらいの感じかも。
先生:短歌というのは前面で出力される空間(1)も、その背面にある空間(2)もどちらも併せ持つことができるんだよ。というわけで、今回の話はここまで。
みよちゃん:先生、この教室きょうで終わっちゃうって噂を聞いたんだけど、ほんとうに終わっちゃうの?
たろうくん:ぼくも気になる。
先生:大丈夫。ふたりの疑問があるかぎりどこまでも続いていくよ。きょうは先生おごるからお昼はみんなでオムライス食べちゃおうね!
解説
短歌のなかに生み出される世界は、基本的には前面の世界です。それは目や鼻や口や、ちょっと横側ですが耳といった重要な感覚器官が身体の前面に集中していることを考えれば至極当たり前のことかもしれません。けれども日常の世界に背後があるのと同じように、短歌のなかにも背後は存在します。短歌では一首のなかに「景色」が描かれます。「景色」とは目で見たもの、つまり基本的には前面の世界の産物です。その「景色」が連れてくる空間もまた基本的には前面の空間になります。短歌はこれまで、前面の空間をどれだけゆたかにすることができるか、に意識が向けられてきたように思います。そのことで進化しようとし、その通り進化してきました。が、短歌がよりゆたかなものとなる方向性のひとつとして、「背面の世界」というものがあるのではないかと個人的には考えています。前面の世界に特化した、すぐれた作品があり、また、背面の世界を取り入れた、すぐれた作品がある。そんな光景を想像すると、うれしくなってくるのです。
「短歌教室」の公開はこれにて終了となります。今までご覧くださった皆さんに感謝申し上げます。また、最終回が大幅に遅れてしまい申し訳ありませんでした。これからもけんじろう先生とたろうくんとみよちゃんの短歌教室は人知れず続いていきます。またどこかでお会いできる日を楽しみにしています。
季節の植物
もぎたてのトマトを白き俎板に切ればまないたすこし泣きたり 春野りりん『ここからが空』
家事の場面で野菜を切るのは、人間にとってはいたってありふれた出来事です。ここではプラスチックの白い俎板のうえにトマトを置いて切っています。ここで、オートマチックにいけば切られるトマトの立場に、あるいは、「切る」という行為の最前線にある包丁の立場に立っていくこともあるでしょう。しかし、この一首ではそのトマトの下にある、いわば地味な存在の俎板に意識が入り込んでいます。切る包丁でもなく、切られるトマトでもない、その下の俎板。長方形で薄いただの板。とはいえ、その板こそが「切る」「切られる」という行為の舞台であり、切られてしたたるトマトの果汁や、降ろされた刃物の尖った質感をもろともに受け止めるものです。童話的なまなざしの奥から、気づかれることのなかった現実が迫り出しています。