アスパラガスビスケットの韻律<後編>
前回は、漫画『大阪ハムレット』を例に漫画のなかのレイアウトと韻律表現を考察した。また石川啄木の次の歌、
空に吸はれし
十五の心
について、筆者(久真)が読んだときと、登場人物が読んだときのリズム表現を比較した。二者には共通点と相違点があったが、特に共通点は原典の三行書きが誘導している可能性を確認した。
ところで前回の最後に書いたが、リズムの誘導について何の制約もしない書き方というのはあるのだろうか。現代短歌の韻律批評を読んでいると、書き手が制約のなさを想定しているように見える書式がある。それは、一行書きでかつ字幅が等しく、字間も均等かつ小さめな表記である。この書式を今回はあえて「アスパラガスビスケット型」略して「アスビス型」と呼ぶことにする。
現代の短歌表記はアスビス型が主流だ。多行書きや字間空けがある場合、それこそ啄木の三行書きのように、行を分けたりスペースを入れた効果は高い頻度で考察の対象になる。
対してアスビス型表記にしたことの効果を問うような韻律批評は見かけない。アスビス型は「リズムを誘導する手がかりがどこにもない」表現方法であるということが不文律となっているようだ。
かなの書とレイアウト
『とめはねっ!』は書道を題材にした漫画作品で、中盤からは主人公たちが「かなの書」を習い始めるため、和歌の書が数多く登場している。その書作品は例えば次のようなものだ。
俵万智『サラダ記念日』に収録の〈春を待つ心を持たぬ三月に遅咲きの梅君と見ている〉である。古典和歌だけでなく、現代短歌もかなの書の題材になる。なお、作品はこれも含め実際に書道経験者の作品なので、以降の考察は漫画というより、かなの書から読み取れる韻律について述べていることになる。
さて漫画内では、かなの書の多くに見られる独特の表記の仕方を「散らし書き」と呼ぶ。作品内で言及されている特徴としては「行頭が一定でない」「行間が一定でない」「中心線が垂直とは限らない」「大きな余白」などが挙げられている(第7巻p.194) このような非対称な書の形式は、書のルーツである古代中国にはほとんど見られないそうだ。
図2の歌のリズムを考察するため、次のように休止とそれで分けられるパートを考えてみたい。
〈休止〉
休止の長さは、長い順に〔4〕>〔1〕=〔2〕>〔3〕と見られる。〔4〕は移動距離が長いので休止間隔は最も長い。一方、三句目と四句目の境界は「三月に おそ」と一行内に収まっており、字間も狭いので、休止〔3〕の間隔は短い。
〈テンポ〉
この作品は「書」として登場している。『大阪ハムレット』などの漫画作品にある、文字の塊に対する強い斜め方向への視線誘導(詳しくは前回を参照)はないので、基本的に一行ずつ読み進めようという意識が働く。しかしこの作品は、一文字あたりの縦幅が句によって変わるという特徴がある。幅が長いほど、一文字を読む時間は長くなる。つまり、テンポは緩やかな順に、二 = 三 > 一 = 五 > 四となる。
〈リズム〉
リズムをまとめると上図のようになる。二句目で一旦スローダウンするが、四句目にかけては休止もなく、テンポは速くなる。この加速感のあと、しかし五句目に移る前で長い休止がある。
〈意味とリズム〉
リズムの転換点は目立つ。つまり二句目、そして五句目が重点である。まず二句目「こころを持たぬ」には直前の「春を待つ」がかかる。「春を待つ心」といえば日本の伝統的抒情の型であるが、それを「持たぬ」と否定するところに意外な展開がある。わざわざ典型の日本人像を用意しながらそこから逸脱した主体には、どこか屈折した部分とともに人間くささを感じる。
五句目「君と見ている」で、最後になって初めて「君」が登場する。この歌の主題が、「君」への思いや「君」との関係性であることが五句目で初めてわかる。
二句目と五句目は「主体が一人の人間として浮かび上がる箇所」と「君が登場する」箇所だ。二人の主要人物それぞれの登場シーンであり、リズムの転換点と同期することでより強く印象付けられることになる。
私はどう読んだか(俵万智編)
この歌の原典はアスビス型であり、現代短歌の極めて一般的な表記だ。原典の表記を筆者(久真)が黙読したとき、どんなリズムで読んでいるかを再び書いていこう。
まずは原典のイメージをなるべく正しくつかむため、画像として引用する。
歌のリズムを考察するため、再び次のように休止とそれで分けられるパートを表現する。
〈休止〉
休止は〔1〕>〔3〕>〔2〕>〔4〕のように感じられた。〔1〕が長い理由は後述する。〔3〕は、私が五七五の切れを前提に読むことによる。〔2〕と〔4〕は文章の切れでないため短くなるが、ひらがなから漢字への転換がある〔2〕より、漢字が続く〔4〕は一つの熟語のようで、連続性を高く感じる。つまり〔4〕の方が短い休止となる。
〈テンポ〉
テンポはどの句もほぼ等しく感じる。なぜならどの文字も同じフォントサイズで、かつ字間も等しいからだ。実際には漢字交じりであるため文字数=音数ではないが、印刷によって整然と配列された文字は、まるでメトロノームで拍を打つような印象を与える。また、どの句においても漢字とひらがなの使用比率に偏りがない点も、各句が均質であるという印象を強める。
〈リズム〉
筆者が黙読したときに感じるリズムをまとめると上図のようになる。テンポが常に等しい分、休止の間隔のメリハリが目立つ。
〈意味とリズム〉
一句目で長い休止を感じるのは、「春を待つ」までで文章が完結したように見えるためだ。しかし二句目の冒頭で「心」が続くため、一句目は完結していないことがわかる。私は「春を待つ」までを読んだとき、確かにその伝統的な抒情に共感する自分を感じる。と同時に、あまりに典型的な抒情への拒否感も生じる。だから次に「心を持たぬ」と来られると、それにも賛同する気が起こり、二度目の同調を果たす。二句目までに感じる「春への期待」とそれに対する否定の入り混じった感覚は、四句目以降の「君」との関係に実質を与える。それは「君への期待」とそれに対する否定という相反する感情である。「(三月の)遅咲きの梅」という「綺麗さ」と「季節外れ」で表現された、ポジティブさとネガティブさが裏表で存在するような表現もそれを強める。
私にとって、この歌の核心は二句目までの主体の複雑な感情表現にある。四句目以降は休止もなく流れるため、「君」の重要度はそれほど感じない。
共通点と相違点
『とめはねっ!』の書作品から読み取れるリズムは、書の作者が原典を読んで感じ取ったリズムが表現されていると解釈できる。その読みと、久真が原典を読んだときのリズムを比較してみよう。
〈共通点〉
- 相対的に休止〔1〕が長い。
〈相違点〉
- テンポの変化がある(『とめはねっ!』) ⇔ 変化がない(久真)
『とめはねっ!』のテンポの変化は、実際に文字の縦幅の長さが異なる点に起因している。一方で原典は、1文字の大きさが等しいためにテンポの変化がなく感じる。 - 〔4〕が最も長い休止である(『とめはねっ!』) ⇔ 〔4〕が最も短い休止である(久真)
- 『とめはねっ!』のレイアウトで表現されると、主体と「君」の登場人物の重要度はどちらも等しく感じる。一方、原典を私が読むと「君」よりも明らかに主体に焦点があると感じる。
アスビス型の制約
筆者(久真)がアスビス型の表記を読んだ場合、次のような制約を感じていることがわかった。
- テンポは基本的に等しい
ただし同一フォントサイズで字間も等しく組版された形であることが条件1、漢字と仮名のバランスに偏りがないことも条件2として必要である*1 - ひらがな→漢字のように、文字の種類が転換すると、転換しない時より休止の間隔が長い
一行書きも特殊なレイアウトである
アスビス型は「散らし書き」の情報量には及ばないかもしれないが、リズムを制約するような要素を含んでいることがわかる。しかし冒頭で述べたように、アスビス型自体のリズムに対する効果がほとんど語られない状況下では、各人のルールは読者間で交換されない。それは『最もよく使われる短歌の表記スタイル』に対する様々な読みを評価する基準が生まれないということであり、その結果、歌の評価を読者間で共有できないという事態につながっている。
それを防ぐためには、アスビス型を「韻律に関して何ら制約がない」表記だと捉えるのではなく、何らかの制約を与える特殊なレイアウトの一つだという前提で読んでいくべきだ。そうして読解の土台となるような共通認識が形成されたとき、私たちは短歌作品の「韻律」をもっと多様に評価できるようになるはずである。
「漫画をよむと和歌になる?」は今回で終了です。ご愛読ありがとうございました。